リアルとデジタルの逆転

20120205-195557.jpg

最近、Facebookで知人の動向を知ることが普通になった。アクセス環境がPCやモバイル等多岐に渡るため、その昔mixiが流行った時よりも即時性が高くなった。

金曜日の夜に仕事で会社に残って、Facebookの画面を開くと、日本全国津々浦々(そして時には世界中)から自分たちがいかに花金を謳歌しているか、洪水のごとくタイムラインに写真やら、コメントやらがが跋扈し、それを受動的に見ている自分もなんだかその場にに参加しているような気分になって来るのだ。

その時、ふと感じた。なんだか、Facebookという大きなシステムの中で監視されているようだ、と。

昔は、ネットといえば、ある種の逃避行の行き先の一つだった。現実世界とは別の世界をネットの中に求めたのだ。匿名の環境の中、自由を楽しむ。初期のハッカー文化にもそのような考え方に通じるところがあるだろう。

だが、友人たちから続々とアップされるタイムラインをみていると、もはやそのような世界は存在しないように感じられた。Facebookが究極的に目指すのは、これまで、リアルな世界でしか存在していなかった「ソーシャル」と呼ばれる人間同士の関係のすべてをデジタルな世界に移植することだ。それは、現在進行形の出来事だけでなく、過去の出来事についてもユーザーが自ら情報をアップロードすること(例えば昔の写真とか)を促すことで実現しようとしている。

そのような事象が進むさなか、過去のデジタルな世界と同じ性格の自由を求めようと思うと、逆にリアルの世界に出ないといけないのではと思った。

何にも、誰にも行動をトラッキングされることもなく、他でもない自分のためだけに経験できる世界。

過去にネットの匿名性の中にそのような世界を求めた、決して多くはいないかもしれない人たちと同じ性格を持つ人たちがいるとするならば、今後彼らはきっとリアルの世界を目指すだろう。

「書を捨て街に出よ」じゃないが、きっと、これから、「外に出ること」がますます加速的な傾向を迎えると思う。外で音楽を聴くフェスしかり、自転車が都市圏の新たな移動として注目されていることもしかり、カーシェアの盛り上がりもしかり。

そういうトレンドを予見して、何ができるか。今のうちの仕込みが大事だと思うが、どうだろうか。

視覚以外の感覚を使ったプレゼンについて

ditd
これは、もともとはドイツのアンドレアス・ハイネッケ博士が考案したもの。どれだけ経っても、決して目が慣れることのない「100%の暗闇」の中で、8名の参加者と1名の進行役(目が見えない方がやる)でキャッチボールや、積み木並べや、果てはお茶会までを行う。

このプログラムは面白い。が、どれだけ言葉で書いても実際に体感してみるまでは、伝わらないと思う。それは、人間がいかに普段から視覚に頼りすぎているのかという事を理解する瞬間だ。

例えば、積み木並び。8人の参加者は、それぞれ積み木のパーツを渡され、他人のパーツに直接触れる事なく、積み木を完成させなければならない。視覚的に相手がどのような部品を渡されているのか確認できない以上、言葉で伝え合うしかない。そして、それはきわめて難しい。なぜなら、誰かが「僕のパーツは結構大きい」と例えば言ったとしても、どれだけ大きいのか、誰にも共有されないからである。

なので、グループワークを行うにつれ、共通の尺度を作るなどの努力を試み、なんとか形にしようと努力するのだが、本当に大変。視覚という感覚が一つないだけで、単純な作業がこれほどまでに大変なのかと思い知った。

普段の仕事においても、同じ事が言えるのではないかと思った。

コピーとグラフィックをあわせてカンプを作る。CMを作るために、絵コンテを起こす。ウェブページのプレゼンをするために、遷移図を作る。すべて、視覚をベースにしたプレゼンだ。(当たり前だけど)

ただ、視覚以外に頼るプレゼンもある。

DIDのセッション中、視覚がない状況下で、他の感覚が研ぎすまされていく感じがあった。触覚、嗅覚、味覚…。視覚がない中でもリアルに現実が感じられる。それは、残った感覚がもたらすものだった。

ならば、視覚だけじゃないプレゼン手法も同じように、「リアル」を感じさせるために機能するのではないだろうか?

例えば、プロトタイプを作ってそれを提案する。実際に使ってもらい、触覚や、時間の感覚というものを肌で感じてもらう。それをするための素材は現在はそろっている。

視覚だけに依らないプレゼン手法の研究をしてみるべきかもしれない。

Theo Jansen展にいってきました。

ちょっと、前の話にさかのぼってしまうのですが、先々週末にテオ・ヤンセン展を見に行ってきました。UCLAにいたときに一度展覧会があったにもかかわらず、いきそびれて以来そのままだったので、今回日本で見ることができて本当によかったです。

場所は日比谷パティオ内に特設された展示会場。その中に所狭しと テオ・ヤンセンが制作した作品が並べられていました。作品だけの展示にとどまらず、彼のドローイングやノートの切れ端など、制作や思考の過程を想像させるものも一緒に見ることができたのは非常に興味深いものがありました。

巨大な、タランチュラみたいなウネウネ動く作品が特徴的な彼の制作物ですが、はじめはきわめてプリミティブな状態からはじまり、幾多の試行錯誤を気の遠くなるような時間とともにおこなってきて初めて今の作品があるのだとよくわかりました。

今回の展示を見て、特に心に残ったのは作者の自身の作品に対する「愛情」です。テオ・ヤンセンは若い頃に思いついたちょっとしたアイデアを(いわゆるTJ機構の原型)、現在の作品までに膨らませてきたわけですが、今後どうしたいのかという問いに対して、「自分が死んでしまったとに自分の子供たち(自分の作品のこと)が一人で動き回って生活できるようにする」と彼は答えます。彼にとって、彼の作るものは対象としてのモノではなく、あたかも生命を持ったイキモノとして接しているんですね。

僕は、そんな真摯な姿勢で作品を作る彼に感銘を受けずにはいられないのでした。それぐらい、コミットできる何かを自分のライフワークとして見つけることのできたテオ・ヤンセンを幸せに思うのと同時に、自分もそうありたいと強く思った一日でした。

自分なりのスタイル/手法を見つけるという事。

自分の仕事や広告全般について考える事が多い毎日です。クリエーティブだけに限らず、マーケティング上の知識やブランドについての本やウェブサイト、果てはクライアントの商品や業界情報に関してよく読んでいるような気がします。本当は、広告に限らずもっと他の事を勉強しようと思っていたのですが、どうもいったん考えだすと気になってしまい、日々のルーティーンの中で摂取する情報が限られて来てしまっています。これはこれでよくないので、努めて他の情報に触れて行かなければならないと思っていますが・・・。

そのなかでも、クリエーティブの事例を探しそれを自分の知識として体系化して行く為にYoutubeが非常に役に立っています。具体的にどうしているかというと、Youtube上に存在する無数のCMの動画集を自分のパソコンの中に取り組み、それをiTunesにどんどん放り込んで行くという作業です。これが、なかなかすごいことで、CMに限らずYoutubeで自分が「これは面白い!」と思った「ネタ」をじゃんじゃんハードディスクに落として行くので、ここ数週間でiTunesの動画プレイリストがCMだらけになってきています。
ただ、これらをコレクションするのがおそらく重要なのではなく、そこから「何が」「何故」「どうやって」おもしろいのか考えて行く事が大事なのだと思います。その昔、広告業界では今となっては有名すぎる、佐藤雅彦さんがクリエーティブ局に転局した当時は自分で世界中のCMを見比べて「佐藤雅彦選傑作CM集」なるものを作って勉強していたそうです。
当時の佐藤雅彦さんの時と同じ事をするのがずいぶん簡単になってきているので、同じような事をして勉強をしている人はたくさんいると思いますが、そこのタネからいかに多く収穫を得られるか、そしてその収穫を得る為の自分のスタイル/手法を発見するかが勝負となってくると思っています。

INPUTを整理しています。

最近、意識的に時間をかけてやっている事。

自分の見聞きした物の中で「面白いな」と思ったモノを逐一書き留めたり、ブックマークに保存したり、スキャンしてデータ化したり、付箋紙を貼ったり等といろいろ素材を集める事に注力しています。
ただ、それだけだと特に芸も何もないので、それを「整理整頓」する事が重要だと思っています。OUTPUTの為にこの作業を行う事が重要なのは言うまでもないのですが(過去の色々な広告マンが指摘する様に)、単純に自分の集めた種々の情報の断片が整理整頓されていく様を見て行くのはなかなか気持ちいい感覚があります。まるで、自分だけの宝物をつくっていくような。よくつくられたデータベースというのは尊いです。
今後、このデータベースがOUTPUTにつながって行けば良いのですが。なにかをつくらないといけないと、このままでは駄目になってしまうという意識が自分の中で強くあります。怠け心を殺して、なんとか前に進みたいと思います。