リアルとデジタルの逆転


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最近、Facebookで知人の動向を知ることが普通になった。アクセス環境がPCやモバイル等多岐に渡るため、その昔mixiが流行った時よりも即時性が高くなった。

金曜日の夜に仕事で会社に残って、Facebookの画面を開くと、日本全国津々浦々(そして時には世界中)から自分たちがいかに花金を謳歌しているか、洪水のごとくタイムラインに写真やら、コメントやらがが跋扈し、それを受動的に見ている自分もなんだかその場にに参加しているような気分になって来るのだ。

その時、ふと感じた。なんだか、Facebookという大きなシステムの中で監視されているようだ、と。

昔は、ネットといえば、ある種の逃避行の行き先の一つだった。現実世界とは別の世界をネットの中に求めたのだ。匿名の環境の中、自由を楽しむ。初期のハッカー文化にもそのような考え方に通じるところがあるだろう。

だが、友人たちから続々とアップされるタイムラインをみていると、もはやそのような世界は存在しないように感じられた。Facebookが究極的に目指すのは、これまで、リアルな世界でしか存在していなかった「ソーシャル」と呼ばれる人間同士の関係のすべてをデジタルな世界に移植することだ。それは、現在進行形の出来事だけでなく、過去の出来事についてもユーザーが自ら情報をアップロードすること(例えば昔の写真とか)を促すことで実現しようとしている。

そのような事象が進むさなか、過去のデジタルな世界と同じ性格の自由を求めようと思うと、逆にリアルの世界に出ないといけないのではと思った。

何にも、誰にも行動をトラッキングされることもなく、他でもない自分のためだけに経験できる世界。

過去にネットの匿名性の中にそのような世界を求めた、決して多くはいないかもしれない人たちと同じ性格を持つ人たちがいるとするならば、今後彼らはきっとリアルの世界を目指すだろう。

「書を捨て街に出よ」じゃないが、きっと、これから、「外に出ること」がますます加速的な傾向を迎えると思う。外で音楽を聴くフェスしかり、自転車が都市圏の新たな移動として注目されていることもしかり、カーシェアの盛り上がりもしかり。

そういうトレンドを予見して、何ができるか。今のうちの仕込みが大事だと思うが、どうだろうか。

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