マキャベリズム的プロデュース思考


広告における「いいプロデューサー」とはなんであろうか?

広告業界において、良い仕事をするために、たくさん仕事人が日々自身のパフォーマンスを研鑽すべく同じように問い、仕事に臨んでいるかと思うが、私は「マキャベリズム的思考」がなされているかという事が、一つ条件としてあると思っている。

マキャベリズムというと、「権謀術数主義である」だとか、「目的の為に手段を選ばない」だとか、ネガティブな意味がつきまとうが、こと広告の仕事となると、この考え方は美徳に変化する。

エントリーの最初にも”Shit Happens”(「クソなことは必ず起こる」)とあるが、どんな仕事でも必ずそうだと思うが、仕事をしていると「あり得ないだろう…」と思う事含め、それこそ本当にいろいろな事が起こる。しかも、それは様々なレイヤーで起こる。そして、そういう事が起こるたびに「自分はなんてついていないんだろう…」と思う。だがその反面、「これを回避する為に何かできる事は無かっただろうか?」とも考える。

そんな時にこそ、マキャベリズム的思考が重要となってくる。
四方八方から降り掛かってくるであろう火の粉を、一つ一つ、脅威となる前に
・「レイヤー関係なく」
・「手段を問わず」
つぶしていくのが広告プロデューサー的観点から見たマキャベリズムだ。

ある種未来を先読み仕様とする事なので、これは非常に難しい。起こってもいない事を、考えて考えて、少しでも危険な香りがしたら、先回りしてひとつひとつ火消しをしていく。

この火消しの際に、役職であったりだとか、役割は関係ない。破綻をきたすような事が無いように、すべての要素がつながり、安全な一本の線になるように最新の注意を払う。この線を途切れさせようとするものは何があっても排除する事。また、それだけでなく、なるべくこの線が太くなるように補強をしていく。怠けては行けない。一瞬の怠惰は、このか細い線を寸断するには十分すぎる可能性を持つ。

この作業をなにがなんでもやりきろうとする意思の強さがプロデューサーに求められるマキャベリズム的思考だ。

映画”bourne ultimatum”にて、手段を問わずボーン抹殺をもくろむクレイマー長官(CIAの偉い人)が言った台詞がある。

“My number one rule is hope for the best, plan for the worst”
(最上を望み、最悪に備えた計画を立てるべし)

まさにこの通りだと思う。過度にビビってはいけないが、最悪を想定すればするほどリスクは回避され、シミュレーションは精緻になっていく。

電通鬼十則に「頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。」という言葉があるが、「八方に気を配って」というのはこのマキャベリズム的思考の事を指しているのではとさえ最近思う。

リスクを取り除き、理想的な状態をキープできている事自体がある種の芸術であり、クリエーティビティーが発揮されている証左である。

書いている本人がまったく実践ができていないが、自分の戒めとしてもしっかりと実践していきたい。

 

仕事における能力の高さ

仕事における能力の高さとはなんであろうか。

一番簡単な指標は、周りの人との相対的な比較だろう。
「あの人は仕事できる」
「〜〜は仕事できない」

など。

私たちは皆、幼少の頃から学校や塾でそのような方法に慣れ親しんでいるからだ。

ただ、職場は、学校とは違う。職場で仕事をしていると、様々な人に出会う。年齢や仕事での経験や、バックグラウンド、国籍までも、何もかも違う。

他人と比較するのは意味が無いのではないだろうか。それに、比較をしだすと、落ち込む。他人を出し抜くのは非常に難しいからだ。(そして、だからこそ、自己啓発本が時を問わず売れる)

では、能力の高さとはどこからくるのだろうか?私は、それは自分の切片(傾き)だと思う。

それは、能力の高さではなく、情熱の強さである。自分の普段の意識の持ちようである。
仕事に日々向き合うとき、過去も、未来も気にせず、仕事をしている一刹那に力を込めるとき、その人の切片はきっと高くなるはずだ。

だが、自分のこれまでの経験や、自分で把握している自分の性格に照らし合わせて考えると、この切片は意識しないと切片は高くならない。
・仕事における情報収集を心がける
・休日に置いても仕事の事をどこか考え続ける
・会議で積極的に発言する
・自分の価値分のアウトプットを出し、さらにはその上のアウトプットを目指す
※いわゆる仕事で成功する為の「心がけ」だ。金太郎あめをきったみたいに跋扈している自己啓発本を読めばこれらの内容の枚挙には暇がない。

面倒だけど、確かに自分の気持ちをがんばって「押し切らないと」、たしかに情熱は生まれない。人間は元来怠惰な生き物だと思う。だが、押し切った後の気持ちは壮快だ。活力がみなぎり、どんどんやる気がみなぎってくる。達成感もある。

だが。

こんな事を書いていると、資本主義って本当に大変だなと思う。

なぜ、ここまでやるのか。なぜ、仕事を頑張る事/自分の「成長」とやら(それが本当に成長なのかどうかは怪しい…)を目指すのか。その先に何があるのか。
一種の「出家」のようであると思った。がんばる事に、理由なんか無い。ただコミットし、そのコミットに対しての成果を求めるのみ。このコミットの代償が高ければ高いほど、リターンも確かに多い。

 

現代日本のビジネスパーソンのなかに、(日本に限った話じゃないかもしれないが)仕事がある種の宗教的なよりどころになってしまっているような気がする。

今の仕事は確かに好きだし、充実感もあるが、社会全体でもっと気楽にやればいいのに、とも思う。

自分の周りの人の働き方のスタイルや労働観について

最近、仕事でこれまで、会う事がなかったような人に会う事が多い。
お会いするのはいわゆる自分と同じサラリーマンの立場の方ではなく、
自分自身で独立し、自分の才能で生きていっている「アーティスト」な人たちである。

圧倒的なエネルギーで人をどんどん巻き込んでいき、
刺激的なアウトプットを発表、またさらにまわりの人を引き寄せて、
よりよいもの作りの環境であったり、名声・評判を獲得していく…。
登り調子で、いわゆる「旬」な人たち。それが自分でもわかっている感じである。

そんな、輝くような才能に触れると、自分も触発されるところがある一方、
そして同時に、その人たちが発する眩しさに嫉妬のような感情も感じる。

けれども、そんな中、はっとさせられる事もある。
自分と同い年のあるアーティストと話をしていて、
若くして、自分の足で立って、独立する事は怖くないのか?と聞いた時である。

「独立だなんて、とんでもない。人に助けられて、助けられて自分はここまできている。一人では到底できっこない。」

そういわれて、なるほどな、と思った。

生きていく上で、どんな仕事をしていても自分一人で完結する事はあり得ない。それは、会社という組織に属していようがいまいが関係ないのだ。

リチャード=フロリダが昔提唱した「クリエイティブ経済」の中で、今後場所にとらわれる事なく、クリエイティビティをコアにお金を稼ごうとするクラスの台頭すると言われていたが、自分が接している人たちがまさにそうなのではないかと思う。

たしかに、組織に縛られず独立はしているが、人と人のつながりがない訳ではない。近々同期が会社を辞め、スタートアップ企業で働く事になっているが、日本でもある一定層の中でその傾向は加速していくのだと思う。

そして、ここまでの自分の歩みを考えてみる。そのときそのときでは、一生懸命がんばっていると思っていたが、改めて振り返ってみると後悔を感じる事も多い。がんばっているつもりで、実は逃げていたのではないのか?人間とは弱いものだから、主観での自分の現状認識と、客観のそれとでは違う事はよくある事だ。

別の同期と話をしていたときの事。この人は、仕事をすごくがんばる人だ。土日のどちらかは、必ず仕事をしているという。なぜそこまで仕事をがんばるのか?という問いに対して、その人は、こう答えた。

「自分の好きな上司に認められる事が喜びであり、正しい道を歩んでいるとわかる唯一の方法だから、がんばっている」

明確でわかりやすい指針だと思った。

働き方は違う人たちが周りに沢山いるが、学ぶべきところは多い。
しっかりと仕事に取り組み、かっこいい生き方をしたい。

情熱を持って仕事にあたる方法

この、ブログの記事を読んだ。
“I’m not as smart as I thought I was.”
(邦訳はこちら:「僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった」

とある高校生が、「自分は思っているより頭が良くなかった」と愚痴っているエントリーに対して、なされた返信が大変示唆に富んでいて、各方面で話題になっているものである。

先の高校生に対して、「頭が良い」といわれる人たちが、決して、まったくもって到達不能である、という事ではなく、長年の鍛錬と蓄積によるものであると、説明を行い、
さらに加えてもう一つ必要なものがあると説明していた部分が個人的に心に残った。
抜粋は以下の通り。

うまくやる学生はそういう困難にぶつかったとき、自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘い、山のふもとで小さな歩みを始めます。彼らは、プライドに傷がつくことは、山頂からの景色を眺めるためであれば取るに足らないということを知っているのです。彼らは、自分が力不足であると分かっているので助けを求めます。彼らは知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。

「知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。」
確かにその通りだと思う。
やる気がない=情熱がない。それでは、何もなし得る事はできない。
ある先輩が言っていた、「私は誰かを評価するとき、その人の能力ではなく情熱を評価するようにする。」

でも、情熱ってどうやって生み出すのだろうか?
高尚な目的(例えば、この仕事で俺は世界を変えるんだ!とか)がないと
情熱なんてわき上がってこないような気もする。

脳科学者に池谷裕二さんという方がいる。
いろいろ本を出しているので、すごく有名な方なのだが、
「脳は身体的事実に追随する」という話がある。

人間とは、やろう!と思って何かを始めるのではなく、
身体を動かす事によって、初めてかわるのである。

眠いのに起きなきゃいけないとき、寝ているままだと
いつまでも眠いまま。

つまり、身体が脳に取ってのスイッチなのである。

物事の「やる気」もそうであるとの事。
例えば、経験はないだろうか?部屋の掃除をしたくないとあれだけ思っていても、
いざ初めて見ると気分が乗ってくる、そんな経験が。

情熱も同じだと思う。
情熱を持とうと思い続けても、いつまでもたっても、そんなもの、降ってきやしない。
ナイキのJUST DO IT!じゃないけど、何でもいいので初めてみる事こそが、
人の情熱の源泉となるのではないだろうか。

視覚以外の感覚を使ったプレゼンについて

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これは、もともとはドイツのアンドレアス・ハイネッケ博士が考案したもの。どれだけ経っても、決して目が慣れることのない「100%の暗闇」の中で、8名の参加者と1名の進行役(目が見えない方がやる)でキャッチボールや、積み木並べや、果てはお茶会までを行う。

このプログラムは面白い。が、どれだけ言葉で書いても実際に体感してみるまでは、伝わらないと思う。それは、人間がいかに普段から視覚に頼りすぎているのかという事を理解する瞬間だ。

例えば、積み木並び。8人の参加者は、それぞれ積み木のパーツを渡され、他人のパーツに直接触れる事なく、積み木を完成させなければならない。視覚的に相手がどのような部品を渡されているのか確認できない以上、言葉で伝え合うしかない。そして、それはきわめて難しい。なぜなら、誰かが「僕のパーツは結構大きい」と例えば言ったとしても、どれだけ大きいのか、誰にも共有されないからである。

なので、グループワークを行うにつれ、共通の尺度を作るなどの努力を試み、なんとか形にしようと努力するのだが、本当に大変。視覚という感覚が一つないだけで、単純な作業がこれほどまでに大変なのかと思い知った。

普段の仕事においても、同じ事が言えるのではないかと思った。

コピーとグラフィックをあわせてカンプを作る。CMを作るために、絵コンテを起こす。ウェブページのプレゼンをするために、遷移図を作る。すべて、視覚をベースにしたプレゼンだ。(当たり前だけど)

ただ、視覚以外に頼るプレゼンもある。

DIDのセッション中、視覚がない状況下で、他の感覚が研ぎすまされていく感じがあった。触覚、嗅覚、味覚…。視覚がない中でもリアルに現実が感じられる。それは、残った感覚がもたらすものだった。

ならば、視覚だけじゃないプレゼン手法も同じように、「リアル」を感じさせるために機能するのではないだろうか?

例えば、プロトタイプを作ってそれを提案する。実際に使ってもらい、触覚や、時間の感覚というものを肌で感じてもらう。それをするための素材は現在はそろっている。

視覚だけに依らないプレゼン手法の研究をしてみるべきかもしれない。

今になって思う。

自分は完全にスパゲティーコードを書いている。コード間の依存関係が多すぎる・・・。

だが、本当はどう書いたらよかったのかも分からない。

とりあえず、今のまま進んでみる事としよう。

ちなみに、現状のまとめ。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

http://vimeo.com/13458736

少ししたら、これよりもうちょっと進んでいるものをアップします。

過去でもなく、未来でもなく。

「今」という瞬間、というか、「一刹那」にフォーカスする事の大切さというものを最近よく考えます。

よく人はうまく行っていない現在の自分への原因を自分の過去に求める事があるかもしれません。例えば自分の過去を振り返って 「〜〜しておけば良かった。」「〜〜しなかったのはよくなかった。」などと否定してみたり。 去年の前半あたりから、思う様に行かない「仕事」という人生上のやっかいなトピックにたいして僕はそう考えていました。

そして、ある人は自分の未来に絶望というか、ある種の諦観を持っているかもしれません。「どうせ自分はこの先〜〜という道しかないから。」 「いくらがんばってもどうせ自分は〜〜になるだけだ。」などとうそぶいてみたり。これも多分に漏れず僕の思考を支配していた言葉たちです。

そうはいいつつも。
最近は別の事を考える様になりました。それは最初にも書きましたが「今」を大切にする事。この「一刹那」に 全力を出し切ること。そこには「過去」もなければ「未来」もない。「後」もなければ「先」もない。あるのは今という瞬間瞬間の連続だけ。

無味乾燥に聞こえるかもしれませんが、逆に言えば「今」 にさえ集中すればずっと僕を苦しめてきている「過去」や「未来」にとらわれる事なく生きていける事かもしれません。「何いってんだコイツ」みたいに思われるかもしれませんが、そういった感覚/姿勢を自分のポリシーにして行きたいです。粛々と仕事に打ち込むストイックな感じがよいです。

担当している案件もいよいよ佳境。

あっという間の三連休。

この三連休は撮影が入っていたため、ずっと川崎市の某スタジオにてずっと撮影の立ち会い。朝からスタジオに入り、夜には帰宅するというスケジュールで、なかなかきつそうに見えるのだが、撮影自体はスタッフにお任せしてあるので(クライアント確認事項等はのぞいて)基本は「待ち」のスタンス。

ずっと待っているのもどうしようもないので、本やらPCを持ち込んで対策を立てる。それで、PCでずっと何かしら個人的な作業をしているのだが(このブログを立ち上げてみたり)スタジオの閉め切った空間で、かつ画一的なライティングのおかげで「時間」というモノの概念が失われ作業がかなりはかどる。

色々、その間考え事をしていたが、とりあえず仕事を頑張ろうという決意に至る。なんだか、頑張れそうな気がする。