この、ブログの記事を読んだ。
“I’m not as smart as I thought I was.”
(邦訳はこちら:「僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった」)
とある高校生が、「自分は思っているより頭が良くなかった」と愚痴っているエントリーに対して、なされた返信が大変示唆に富んでいて、各方面で話題になっているものである。
先の高校生に対して、「頭が良い」といわれる人たちが、決して、まったくもって到達不能である、という事ではなく、長年の鍛錬と蓄積によるものであると、説明を行い、
さらに加えてもう一つ必要なものがあると説明していた部分が個人的に心に残った。
抜粋は以下の通り。
うまくやる学生はそういう困難にぶつかったとき、自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘い、山のふもとで小さな歩みを始めます。彼らは、プライドに傷がつくことは、山頂からの景色を眺めるためであれば取るに足らないということを知っているのです。彼らは、自分が力不足であると分かっているので助けを求めます。彼らは知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。
「知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。」
確かにその通りだと思う。
やる気がない=情熱がない。それでは、何もなし得る事はできない。
ある先輩が言っていた、「私は誰かを評価するとき、その人の能力ではなく情熱を評価するようにする。」
でも、情熱ってどうやって生み出すのだろうか?
高尚な目的(例えば、この仕事で俺は世界を変えるんだ!とか)がないと
情熱なんてわき上がってこないような気もする。
脳科学者に池谷裕二さんという方がいる。
いろいろ本を出しているので、すごく有名な方なのだが、
「脳は身体的事実に追随する」という話がある。
人間とは、やろう!と思って何かを始めるのではなく、
身体を動かす事によって、初めてかわるのである。
眠いのに起きなきゃいけないとき、寝ているままだと
いつまでも眠いまま。
つまり、身体が脳に取ってのスイッチなのである。
物事の「やる気」もそうであるとの事。
例えば、経験はないだろうか?部屋の掃除をしたくないとあれだけ思っていても、
いざ初めて見ると気分が乗ってくる、そんな経験が。
情熱も同じだと思う。
情熱を持とうと思い続けても、いつまでもたっても、そんなもの、降ってきやしない。
ナイキのJUST DO IT!じゃないけど、何でもいいので初めてみる事こそが、
人の情熱の源泉となるのではないだろうか。